「彼女も笑っていましたよ」——。
ハラスメント調査の場で、加害者とされる人物から頻繁に聞かれるこの言葉。しかし、もしその笑顔が、恐怖と絶望の中で浮かべた、精一杯のSOSだったとしたら?
近年、性的同意に関する最高裁判決や刑法改正により、企業のハラスメント調査プロセスは、根本的な見直しを迫られています。「抵抗しなかったから」「明確にNOと言わなかったから」という理屈は、もはや通用しません。今、調査担当者に求められているのは、言葉にならない“心のサイン”を読み解き、見えないパワーバランスの中で何が起きたのかを正確に認定する、高度な専門性です。
あなたの調査手法は、本当にアップデートされていますか?
まず、あなた自身の思考の癖を客観的に見つめる「真実の鏡」で、現在地を確認してみましょう。
【自己診断】
ハラスメント調査担当者 “無意識バイアス” チェック
これは、あなたの能力を評価するテストではありません。より公正な調査を行うために、ご自身の思考の癖(バイアス)と向き合うための内省ツールです。10の質問に対し、最も近いものを直感的にお選びください。
診断結果
なぜ「心のサイン」を見落とすのか?調査担当者が知るべき3つの心理的・法的事実
診断結果はいかがでしたか? ご自身の思考の癖に、新たな発見があったかもしれません。
「笑顔=同意」のような危険な誤解は、担当者の能力不足や悪意から生まれるとは限りません。むしろ、人の心理や最新の法改正に関する知識のアップデートが追いついていないことが、根本的な原因なのです。
1. 心理的事実:「抵抗しない」のではなく「抵抗できない」フリーズ反応
強い恐怖やストレスに晒された時、人間の脳は「闘うか、逃げるか(Fight or Flight)」だけでなく、「凍りつく(Freeze)」という反応を選択することがあります。これは「緊張性不動」とも呼ばれる、意思とは無関係の生理的な防御反応です。
被害者が抵抗せず、されるがままになってしまったり、恐怖から無意識に笑顔を浮かべて相手をなだめようとしたり(Fawn:媚びへつらい反応)するのは、まさにこの状態です。これを「同意のサイン」と誤解することは、被害者の尊厳を二重に傷つける「セカンドハラスメント」に他なりません。調査担当者は、トラウマインフォームドケアの視点を持ち、一見矛盾に見える被害者の言動の裏にある心理を理解する必要があります。
2. 法的事実:「NO」の確認から「YES」の確認へ
2023年7月に施行された改正刑法では、これまでの「強制性交等罪」が「不同意性交等罪」に変わりました。これは、法が求める基準が大きく転換したことを意味します。
これまでは「暴行や脅迫があったか」「抵抗が著しく困難だったか」が焦点でした。しかし、これからは「同意しない意思を表明することが困難な状態にさせた」り、「恐怖・驚愕させた」りした場合も処罰の対象となります。
つまり、「NOと言わなかった」ことではなく、「明確で積極的なYES(同意)があったか」が問われるのです。この法的基準の変化は、そのまま企業のハラスメント調査における事実認定の基準にも反映されなければなりません。
3. 調査上の事実:パワーバランスが証言の信憑性を左右する
CEOと新入社員。指導医と研修医。人気脚本家と新人編集者。
当事者間に圧倒的なパワーバランスの差がある場合、「対等な個人間」という前提は成り立ちません。被害者が「怖くて断れなかった」「キャリアを失うと思った」と感じていたなら、その状況自体が「同意しない意思を表明することが困難な状態」であったことを強く示唆します。調査担当者は、形式的な言葉のやり取りだけでなく、職務上の地位、年齢、社内での影響力といった状況証拠から、目に見えない力関係を正確に読み解く必要があります。
「真実の鏡」を磨き続けるための、明日からできる3つの実践
では、無意識のバイアスを乗り越え、より公正な調査を行うためにはどうすればいいのでしょうか。
実践1:質問を「非難型」から「共感型」へ変える
あなたの質問は、無意識に被害者を追い詰めていませんか?質問の仕方を変えるだけで、得られる証言の質は大きく変わります。
- (×)なぜ抵抗しなかったのですか? → (○)抵抗することが難しい、と感じたのはどのような状況からでしたか?
- (×)なぜその場から逃げなかったのですか? → (○)その場を離れたい、と思っても、それができなかった背景には何がありましたか?
- (×)それはあなたの勘違いではないですか? → (○)相手のその言動を、あなたがそのように解釈したのはなぜですか?
実践2:「状況証拠」のリストを作成する
客観的な証拠が少ない事案でも、状況証拠を丹念に集めることで、真実に近づくことができます。ヒアリングの前に、確認すべき状況証拠のリストを準備しましょう。
- □ 当事者間の職務上の関係性(指揮命令関係の有無)
- □ 過去のコミュニケーション履歴(LINE、メール、Slackなど)
- □ 行為があったとされる場所の密室性、時間帯
- □ 被害者のその後の勤怠状況や態度の変化
- □ 第三者(同僚など)から見た、普段の二人の関係性
実践3:一人で抱え込まず「複数人」で判断する
どれだけ気をつけていても、一人の人間が持つバイアスを完全に取り除くことは困難です。ハラスメント調査は、必ず複数人(可能であればジェンダーバランスも考慮)でチームを組み、それぞれの視点から意見を出し合うことで、判断の客観性を高めましょう。特に、最終的な事実認定や処分案の決定は、独断で行うべきではありません。
よくある質問(FAQ)
被害者の証言以外に客観的証拠が何もない場合、どうすればいいですか?
無理に「クロ」と断定する必要はありませんが、「証拠がないからシロ」と安易に判断することも危険です。重要なのは、証言の「核心部分」が一貫しており、具体的で迫真性があるかを見極めることです。また、「証拠がない」という結論ではなく、「パワーバランスを考慮すると、被害者の証言する状況が発生した可能性は否定できない」といった形で、リスクを経営層に報告することも調査担当者の重要な役割です。
加害者とされる人物の人生を狂わせてしまうかもしれない、というプレッシャーに耐えられません。
その責任感は非常に重要です。だからこそ、調査は「犯人捜し」ではなく、「事実の解明」に徹する必要があります。あなたの役割は、罰することではなく、何が起きたのかを正確に認定し、会社として公正な判断を下すための材料を提供することです。判断に迷う場合は、顧問弁護士など外部の専門家の意見を求めることも、あなた自身と当事者を守るために有効です。
まとめ:公正な調査は、担当者が自らの「鏡」を磨くことから始まる
「笑顔=同意」という誤解は、氷山の一角にすぎません。私たちの内面には、経験や常識という名のもとに、数多くの無意識のバイアスが潜んでいます。
ハラスメント調査の質は、テクニックや知識だけで決まるのではありません。調査担当者自身が、自らの思考の癖と向き合い、常に「真実の鏡」を磨き続けようとする謙虚な姿勢を持てるかどうかにかかっています。
この記事が、あなたの「鏡」を磨くための一助となれば幸いです。
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