イントロダクション:『信頼の設計図』としての誓約書

「お世話になりました」――その一言で、会社との関係は本当に終わるのでしょうか。特に、顧客との強い絆で成り立つビジネスにおいて、従業員の退職は大きな転機となります。その際に交わされる『誓約書』。あなたはそれを、単なる形式的な手続きだと思っていませんか?

実は、その一枚の紙は、会社と従業員が共に築き上げた『信頼の設計図』とも呼ぶべき重要なものです。在職中の約束事はもちろん、退職後の関係性までをも描き出すこの設計図が、時に大きな法的な意味を持つことがあります。

退職後秘密保持義務」を定めた誓約書効力は、どこまで認められるのか。
この記事では、2022年に注目された美容室の事例(横浜地判 令和4年3月15日)を紐解きながら、経営者と従業員の双方が知っておくべき「信頼の設計図」の描き方と、その法的な意味を徹底的に解説します。

物語の始まり:ある美容室で起きた「顧客情報持ち出し」事件

物語の舞台は、神奈川県にある一軒の地域密着型美容室。長年店長として活躍してきた従業員(債務者)が、独立のため退職します。その際、彼は店のPCから自身が担当していた顧客のリストをスマートフォンに記録し、持ち出してしまいました。

店のオーナー(債権者)は、これを知り、「退職時に交わした誓約書に基づき、顧客情報の利用を禁止してほしい」と裁判所に仮処分を申し立てました。

退職した従業員が、かつての顧客に「新しい店でもよろしくお願いします」と連絡するのは、人情として理解できるかもしれません。しかし、裁判所はオーナーの訴えを認め、元店長に対して2年間、神奈川県および東京都内での元顧客への営業活動を禁止するという決定を下しました。

なぜ、裁判所は「待った」をかけたのでしょうか。その鍵こそ、入社時に交わされていた『信頼の設計図』、すなわち誓約書の有効性にあったのです。

裁判所が「誓約書は有効」と判断した3つの理由

今回の判例で、裁判所が退職後秘密保持義務を課した誓約書効力を認めた背景には、大きく分けて3つの重要なポイントがありました。これは、あなたの会社の『信頼の設計図』が有効かどうかを判断する上でも極めて重要な指標となります。

  1. 理由1:設計図が具体的で明確だった(秘密保持義務の範囲)

    誓約書には、「在職中に知り得た会社及びサロンの取引先(顧客)の経営上、技術上、営業上その他一切の情報(個人情報を含みます)」について、退職後も秘密を保持する旨が明確に記されていました。
    顧客の氏名や電話番号が「個人情報」に含まれることは社会通念上明らかです。このように、何を守るべきかが具体的に定義されていたことが、有効性の第一の根拠となりました。

  2. 理由2:設計図を守るための「対価」が支払われていた(代償措置)

    この美容室では、従業員に対し「情報秘密保持手当」として毎月5,000円から14,000円が支給されていました。これは、秘密を守るという義務に対する明確な「対価」です。
    従業員に一方的に義務を課すだけでなく、会社側もその負担に見合う代償措置を講じていたこと。これが、誓約書の合理性を支える強力な柱となりました。

  3. 理由3:守るべき「資産」が明確に管理されていた(営業秘密性)

    顧客情報は、個々の美容師の記憶の中にだけあったわけではありません。申立外の運営会社によってデータベース化され、組織として管理されていました。これは、顧客情報が個人のものではなく、会社にとって保護すべき重要な「営業上の利益」、すなわち資産であることを明確に示しています。

これらの要素が揃っていたからこそ、裁判所は「この『信頼の設計図』は法的に有効であり、尊重されるべきだ」と判断したのです。

あなたの「誓約書」、本当に有効ですか?効力が認められる一般的要件

今回の美容室の事例は特別なのでしょうか?いいえ、そんなことはありません。
専門家の解説(ベリーベスト法律事務所の記事など)によれば、退職後秘密保持義務を課す誓約書効力が認められるためには、一般的に以下の要素が総合的に考慮されます。

  • 守るべき会社の利益があるか:その情報が、不正競争防止法で保護される「営業秘密」に該当するかが重要です。顧客リストは、適切に管理されていればこれに該当する可能性が高いと言えます。(参考: 不正競争防止法の概要 – 経済産業省)
  • 従業員の地位・職務内容:退職した従業員が、その秘密情報にアクセスできる立場にあったかどうかも考慮されます。
  • 義務の範囲が合理的か(期間・場所・職種):義務を課す期間や地理的範囲、禁止される行為が、会社の利益を守るために必要な範囲を超えて、従業員の職業選択の自由を不当に制限していないかが問われます。今回のケースでは「2年間」「神奈川・東京」という範囲が合理的と判断されました。
  • 代償措置が講じられているか:今回の判例の決め手ともなった「手当」のように、義務に見合う対価が支払われているかは、有効性を判断する上で非常に重要な要素です。

逆に言えば、これらの要件を満たさず、一方的に従業員を縛るような内容の誓約書は、たとえ署名・捺印があっても無効と判断される可能性があります。

【実践編】法的に有効な『信頼の設計図』を描き、守るために

では、私たちは具体的にどうすればよいのでしょうか。経営者と従業員、それぞれの視点から、今すぐできるアクションプランを提案します。

<経営者の方へ> トラブルを未然に防ぐ3つのステップ

あなたの会社の大切な資産と、従業員との信頼関係を守るために、以下の3つのステップで『信頼の設計図』を構築・運用しましょう。

  1. Step1: 入社時に「明確な設計図」を共有する
    就業規則に秘密保持義務を明記するとともに、入社時に個別で誓約書を取り交わしましょう。その際、「秘密情報」の範囲を具体的に(例:「顧客リスト」「価格表」「マニュアル」など)定義することが肝心です。口頭での説明だけでなく、なぜそれらが重要なのか、会社の想いと共に伝えましょう。
  2. Step2: 在職中に「設計図の価値」を浸透させる
    「これは会社の重要な秘密情報だ」ということを、従業員が認識できるよう管理することが重要です。データへのアクセス制限を設けたり、ファイルに「マル秘」と表示したりする物理的な管理と、「情報管理研修」などを通じた意識付けの両方を行いましょう。また、可能であれば「秘密保持手当」のような代償措置の導入も積極的に検討すべきです。
  3. Step3: 退職時に「設計図の約束」を再確認する
    退職が決まった従業員には、再度、秘密保持義務について丁寧に説明し、改めて誓約書(退職合意書)を取り交わすのが理想です。退職金に秘密保持義務への対価を上乗せするなど、円満な関係を維持したまま義務を守ってもらう工夫が、無用なトラブルを避ける最善策となります。
<従業員・退職を検討中の方へ> あなたのキャリアを守る3つの心得

誓約書は、あなたを不当に縛るものではありません。むしろ、ルールを正しく理解することで、あなたのキャリアと権利を守る盾となります。

  1. 心得1: 安易に署名せず、内容を理解する
    入社時や退職時に署名を求められたら、内容をしっかり確認しましょう。特に退職後秘密保持義務や競業避止義務について、期間や範囲が不当に広くないか、自分の将来のキャリアを過度に制限するものではないか、疑問があれば質問することが大切です。
  2. 心得2: 「会社の資産」と「自分のスキル」を明確に分ける
    顧客リストや業務マニュアルは、あなたが業務を通じてアクセスした「会社の資産」です。これらを物理的に持ち出す行為(USBメモリにコピー、私用スマホで撮影など)は、断じて許されません。
    あなたが持ち出して良いのは、経験を通じて培ったあなた自身の頭脳と身体に刻まれた「技術」「知識」「ノウハウ」だけです。正々堂々と、自分のスキルで新しいキャリアを切り拓きましょう。
  3. 心得3: 円満な引き継ぎが、未来への最良の投資
    後任者への丁寧な引き継ぎは、社会人としての最後の責任であると同時に、あなた自身の未来への投資です。会社との良好な関係を保って退職することは、業界内でのあなたの評判を高め、巡り巡って必ずあなたを助けてくれます。

結論:誓約書は「鎖」ではなく、未来を守る「信頼」の証

今回の美容室の事例は、退職後秘密保持義務に関する誓約書が、明確な根拠と合理性を持てば、強い効力を持つことを示しました。

しかし、最も重要なメッセージは、法的な有効性そのものよりも、その根底にある「信頼関係」の重要性です。
誓約書は、従業員を縛り付けるための「鎖」であってはなりません。それは、会社が守るべき資産と、従業員が尊重すべき約束事を明確にし、双方の未来を守るための『信頼の設計図』であるべきです。

経営者は、従業員への信頼の証として公正な設計図を用意し、従業員は、会社への敬意の証としてその設計図を尊重する。日々のコミュニケーションを通じて、そんな健全な関係を築くことこそが、どんな精緻な契約書にも勝る、最も効果的なリスク管理と言えるのではないでしょうか。

あなたの会社の『信頼の設計図』は、明確に描かれていますか?そして、その設計図は、互いの信頼の上に成り立っていますか?
この機会に一度、見直してみてはいかがでしょうか。

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